投稿

アイソレーション電源トランス

イメージ
 オーディオで良い音を聴くために大切なのが、各機器にいかにきれいな電気を流してあげることができるか。今やオーディオ・ファンにとって当たり前に必須の作法になってきているようです。そのためのアイテムが数多く売られていますが、なかには何十万円もするようなべらぼうに高価なものもあります。そんなの、ちょっとやそっとで手が出せるもんじゃありません。  そこで不肖私が採用し、大いに力を発揮してくれると感じているのが、 アイソレーション電源トランス です。これも色々と種類がありますが、中でオススメなのが、かの ProCable さんが販売している スター電器 製のトランスです。数万円で買えます。このトランスは、本来の電圧安定の機能だけでなく、電気の流れの一次側と二次側が絶縁されているために、ノイズが取り除かれたクリーンな電流を得ることができるのです。  ケーブルやタップなどの外側から働きかけてノイズを除去しようとするのではなく、本流そのものをザクッとせき止めて、純粋な電流のみを取り出して流す、そんなイメージでしょうか。電源コンセントとアンプやプレーヤーなどの機器との間に繋ぎますが、使用後は、静寂感が高まり、音の輪郭がくっきりします。さらに、よけいな雑味が無くなった分、音圧が高まったかのような感覚が得られます。この違いは一聴しただけで判別できるほどです。  もし色々ある電源対策の中で、たった一つの方法しか選ぶことができないとすれば、私は迷うことなくこれを選ぶと思います。数万円というのも決して安くはないのですが、費用対効果は絶大、むしろお値段以上の価値ははるかにあると感じます。アイソレーション電源トランス、もはやオーディオ・ファンにとって必須のアイテムといってよいのではないでしょうか。

チャイコフスキーの《ピアノ協奏曲第1番》

イメージ
 アメリカでは チャイコフスキー の音楽の人気が高いんだそうですね。日本ではどうでしょうか。『 白鳥の湖 』や『 くるみ割り人形 』などの親しみやすい音楽をたくさん作曲していますから、とても馴染み深い作曲家だと思います。しかし、聞くところによると、クラシック音楽「通」の間ではあまり評価されていないというか、「玄人受け」しないといいます。なぜなのでしょう。通と呼ばれる人は、素人受けしているものを忌避する傾向がありますからね。そういうことでしょうか。  そういえば、 モーツァルト を大絶賛した大評論家の 小林秀雄 氏が、同じ著作の『 モオツァルト 』のなかでチャイコフスキーについて次のように述べています。「僕は、ハ調クワルテット(K.465)の第二楽章を聞いていて、モオツァルトの持っていた表現せんとする意志の驚くべき純粋さが現れてくる様を、一種の困惑を覚えながら眺めるのである。若し、これが真実な人間のカンタアビレなら、もうこの先何処に行く処があろうか。例えばチャイコフスキイのカンタアビレまで堕落する必要が何処にあったのだろう」  もう少し分かりやすい文章で書いてもらえないものかと思いますが、要するにモーツァルトのカンタービレ(歌う)に比べて、チャイコフスキーのそれは「堕落」しているというのです。ずいぶん厳しい言い様ですが、皆さまはどう感じておられるでしょうか。確かに素人耳にも、チャイコフスキーの楽曲の多くは、悪く言えば表情がオーバーというか、音の強弱の幅が広く、さらに情熱的、官能的でロマンチックなメロディーがふんだんに含まれているという印象です。しかしだからといって「堕落」とは!  前置きが長くなりましたが、彼の《 ピアノ協奏曲第1番 》も、おそらくそうした範疇に加えられる曲の一つなのでしょう。よく知られている第1楽章の序奏部の派手さ、壮麗さは、実に圧倒的です。いかにも大衆向け、大ホール向けに書かれているというので、演奏するのがちょっと気恥ずかしいという指揮者もいるとか。私はまごうことなき大衆の一人ですので、聴くのが恥ずかしいなんてことは全くありません。  ところで、この序奏の主題は最初の一回こっきりで、その後は変形されて再現される以外、二度と出てきません。主部に入ると、もやもやとした旋律が続き、何だか迷路を彷徨うような不思議な感覚になります。聴き進んでいくうち、最初の

恋愛経験とオペラ作曲

イメージ
 オペラのストーリーといえば、何といっても様々に渦巻く男女の恋愛模様❤️でありますね。そんなオペラ作品を数多く残した作曲家と、まったく書かなかった作曲家がいます。その違いの理由は何だろうと考えてみますに、好き嫌いもあったでしょうけど、やはり作曲家自身の恋愛経験の度合いが大きく影響しているんでしょうか。オペラを書くに際しては、実際の恋愛や結婚生活を通じて、男女間の愛情の「機微」をいかに深く理解しているかが重要だった?  たとえば、オペラ作品が1曲もない ブラームス は、25歳のときに婚約した相手がいたにもかかわらず「私は結婚に踏み切れない」といって破棄し、一生独身を通しましたし、「オペラをつくるのは結婚するより難しい」との言葉まで残しています。若い時は超イケメンでしたから、モテなかったはずはないんですが・・・。同じくオペラを書かなかった ブルックナー は、もともと文学的素養が乏しかったともいわれますが、恋愛においては10代の少女ばかりを愛し、結局一度も実らなかった(9回フラれたって)。   ベートーヴェン も、片思いは何度か経験したものの、生涯独身を通した人です(彼もすごくモテたという話もありますが)。彼は、 モーツァルト の不倫ドタバタ劇『 フィガロの結婚 』やプレイボーイの『 ドン・ジョヴァンニ 』、恋人スワッピングの『 コシ・ファン・トゥッテ 』などをひどく毛嫌いしていたそうで、それでも自分もオペラを書かなきゃと思ったのか、いろいろ台本を探して『 フィデリオ 』という美しい夫婦愛を謳ったオペラを一つだけ残しています。  もっとも、この3人の事例のみで、恋愛経験が乏しい作曲家はオペラが書けなかったと決めつけるのはよろしくないかもしれません。それ以外の事情があったかもしれない。さらに有名なオペラを残した作曲家のすべてが深い恋愛経験を経ているかどうかも定かではありませんし、大恋愛をしたのにオペラを書かなかった作曲家もいますからね。ただ、少なくとも上述の3人については、オペラを書かなかった理由が何となく分かる気がします。  そういえば、全く違う話ですが、昔、某都市銀行では「独身者は支店長になれない」という不文律が長らく存在していたと聞きました。結婚という大きな人生経験を経ていない独身の支店長では、妻子のある部下たちへの細やかな配慮ができない、あるいは多くの部下を掌握する

ブルックナーの音楽の世界

イメージ
 1つの交響曲を11回作曲した、というような表現をされる ブルックナー 。それほどに彼の交響曲のほとんどが、あたかも1つの交響曲ではないかと思うほどに似ています。弦楽器のトレモロによる開始、ゲネラルパウゼ(全楽器の中止)、オルガンの響きに似たユニゾンの多用などの共通点。そして、音楽を超えた別世界の音楽というか、人間味とか人間臭さが殆ど感じられない、まさに大自然、大宇宙そのもののような音楽。  そんなブルックナーのファンって、やっぱり少数派なのでしょうかね。かの 宇野功芳 先生でさえ、最初はブルックナーが皆目わからなかったそうですし、ブルックナーの演奏会に行くのは男性客ばかりで、女性の姿がほとんど見られないという話もあります。僭越ながら不肖私も、クラシック音楽ファン駆け出しのころは、マーラーとかブルックナーは生理的に受けつけない感じでしたもんね。特にブルックナーは退屈の極致だった。  しかし一方では、 宮本文昭 さんのように、若いときにいちばん感動したのはブルックナーの交響曲第8番だと言っている人もいますし、ほかにもブルックナーに夢中になっている高校生たちの話が紹介されている本を読んだことがあります。ひょっとしてブルックナーの音楽には、若い人たちに特別に訴えかける何かがあるのでしょうか。私も高校生のころに聴いたら、すぐさま虜になったのでしょうか。  まーしかし、宇野先生も、あるとき突然にブルックナーの魅力がわかったそうですし、再び僭越ながら不肖私も同様です。何かの拍子に急に好きになっちゃった。そして、いざわかってしまうと、最初の無骨で退屈で冷徹な?印象とは違って、実にやさしく繊細な音楽だと気づかされます。なぜ今までその素晴らしさがわからなかったのかと、自分自身の感性に疑いを抱いてしまいます。さほどにブルックナーの音楽の世界は不思議であり、また、決して万人に媚びない魅力に満ち溢れていると感じます。

間違いだらけの〇〇選び

イメージ
 不肖私が若い時分によく読んでいた『 間違いだらけのクルマ選び 』という本。元レーシング・ドライバーで自動車評論家の 徳大寺有恒 さんが、各メーカーの自動車を批判的に評論したもので、〇〇年版というふうに毎年新しく刊行されていました。「間違いだらけの・・・」という言葉が流行語になったほどに大人気となり、私も当時の若者のご多分に漏れずクルマ好きでしたから、ずいぶん熱心に読んでいたものです。  しかし、その評論の内容たるや、まことに辛辣で、たとえば「ユーザーが正しく判断したら、この陳腐さではこれだけの商売はできないだろう」とか「こんなクルマでも見捨てずに買ってくれるユーザーがいるというのだから、ただ感心するばかり」など、相手がトヨタだろうが日産だろうが、もうけちょんけちょんに書いているわけです。あんなヒドイことを書いて、自身の身の安全は大丈夫なのかと心配するほどでしたもん。  実際、刊行当初は自動車メーカーからかなり強い反発があったようです。しかし、だいぶん後になると、テレビ番組で各メーカー技術者と一緒に出演し、個々のクルマの出来具合について、いろいろ議論したりアドバイスしたりしていましたからね、メーカーにとっては切磋琢磨というか、よい刺激になって品質向上に繋がったという面はあるんじゃないでしょうか。ユーザーにとっても、けっこう勉強になる有難い存在だったと思います。そうした文化が次第に根づいていったのか、徳大寺さんが亡くなった後も、クルマに関しては巷間、割とリベラルに評論されていると感じます。  それに比べて、オーディオに関する評論はどうか。実はこれがかなり悩ましいところでして、いろんなオーディオ誌なんかを読みますと、いずれのメーカーの機器もみんな褒めている。一応順位をつけているのもありますが、それぞれに切り口を変えて論じているので比較がしにくい。徳大寺さんのような厳しい批判は皆無で、ネガティブな意見があったとしてもまことに婉曲的。「ベスト・バイ・コンポ」として推奨されている組み合わせは何通りもあり、結局どれが本当のベストなのか分からない。何のことはない、各メーカーを均等に扱った広告やカタログのようなものです。  まーでも、徳大寺さんのケースがむしろ例外であって、オーディオ評論家さんたちもメーカーから仕事をもらっている以上、褒めなきゃいけないのは理解できます。あからさまな

チャイコフスキーvs.ブラームス

イメージ
 指揮者の 藤岡幸夫 さんが、クラシック音楽のテレビ番組で語っていたエピソードです。後期ロマン派の同時代に活躍した チャイコフスキー と ブラームス 。しかし、チャイコフスキーはブラームスのことが嫌いだったといいます。周囲に向かって「ブラームスは好きじゃない。彼の音楽は訳が分からない。退屈で魅力的な旋律が一つもない」と放言していたほどですから、ずいぶんな嫌いようです。  そして、かなり後になって、ドイツのハンブルクに、ブラームスが自分の《交響曲第4番》を指揮しに行ったそうです。そしたら翌週にチャイコフスキーが自作の《第5番》を指揮するために同じホテルにやって来るというじゃありませんか。それを知ったブラームスはわざわざ滞在を延ばして、第5番を聴きに行ったんですね。そしたら、あれだけブラームスの悪口を言っていたチャイコフスキーが、ブラームスが自分のコンサートに来てくれるというので大いに喜び、コンサート後に食事に招待したのです。そして、二人は急速に仲良くなったそうです。  酒食が進んだその席で、チャイコフスキーがブラームスに「僕の5番の感想を聞かせてくれ」と尋ねたそうです。するとブラームスは「とても素晴らしいけど、最後だけはわざとらしくて良くない」と答えたのです。ずいぶんはっきり言っちゃった。そしたらチャイコフスキーは「僕もそう思う」って。いやいや、二人とも、とてもいいヤツじゃないですか。藤岡さんはさらにこうおっしゃっています。やっぱりお互い直接会って飲まなきゃね、って。全くの同感であります。

モーツァルトの《トルコ行進曲》

イメージ
 誰もが知っている、 モーツァルト のピアノ・ソナタ第11番イ長調第3楽章、いわゆる《 トルコ行進曲 》は、1783年、モーツァルトが27歳のときの作品です。第3楽章に「アラ・トゥルカ(トルコ風に)」と記されていることから《トルコ行進曲》と呼ばれるようになったんですね。そんでもって「トルコ風」の意味は、トルコの軍楽隊の音楽のようにということだそうです。  15世紀に東ローマ帝国を滅ぼした オスマン・トルコ は、16世紀初頭から中東、アフリカ、ヨーロッパにも勢力を拡大し、ウィーンも包囲されて陥落寸前となりましたが、1683年にオーストリア軍がオスマン・トルコ軍に勝利したという経緯があります。ヨーロッパ各国にとっては大変な脅威となったものの、決して悪いことばかりではなかったようで、各地にトルコ軍楽ほかオリエンタルな文化が伝わったのです。  ウィーンではトルコの軍楽隊を雇うなど、トルコ熱は徐々に高まっていき、18世紀後半にブームは最盛期を迎えました。モーツァルトの《トルコ行進曲》はそんな風潮の中で生まれた作品です。打楽器と金管楽器を多用したトルコ風音楽は、打楽器が3拍打って1拍休むというスタイルが基調になっており、私たちが聴いても血湧き肉躍るような心地よいリズムです。ピアノ曲である《トルコ行進曲》は、あの有名なメロディーを右手で弾き、左手で軍楽隊のリズムが取り入れられています。  ほかにもヴァイオリン協奏曲第5番(第3楽章)や歌劇《後宮からの誘拐》でも、モーツァルトのトルコ風音楽を聴くことができます。また、このトルコ風を取り入れたのはモーツァルトだけでなく、 ハイドン の交響曲第100番《軍隊》、 ベートーヴェン の劇付随音楽《アテネの廃墟》、交響曲第3番(第4楽章)、第9番(第4楽章)あたりにもその影響がみられます。ずいぶんなブームだったんですね。  そういえば日本では、歌手の 由紀さおり さんと 安田祥子 さん姉妹が、平成9年ごろでしたかね、《トルコ行進曲》をスキャットで「ティアララルン、ティアララルン、ティアララ、ティアララ、ティアララルン♪♪♪」と軽快に歌っていたのを思い出します。とても懐かしいです。

「クラシック音楽が分かる」とは?

イメージ
 よく「クラシック音楽が分かる」とか「分からない」などという言い方がされますね。ベートーヴェンの曲が分かるとか、難しくてよく分からないとか。この「分かる」「分からない」とは、いったいどういう意味なのか。不肖私、分かっているつもりでも、長らく分からないでおりました。そうしたら、指揮者の 金聖響 さんが著書の中でこんなふうにおっしゃっています。  ―― ベートーヴェンの『運命交響曲』がハ短調で始まりハ長調で終わる交響曲で、アレグロ、アンダンテ、スケルツォ、フィナーレと続く4楽章構成で、スペインで反ナポレオンの蜂起が起こったころに完成した作品で・・・・・・といった知識を身につけると、ベートーヴェンの『交響曲第5番ハ短調作品67』を「ワカッタ」あるいは「ワカルヨウニナッタ」といえるのでしょうか?  音楽の構造を分析して知ることもひとつの方法でしょうし、歴史的背景を知ることも「ワカッタ」ような気持ちになる手助けをしてくれます。が、「音楽をワカル」ということは、突き詰めて考えると、その音楽に「馴染む」ことであり、「慣れる」ことだといえるのではないでしょうか。  サザン・オールスターズが1978年に『勝手にシンドバッド』でデビューしたとき、多くの年輩評論家は「ナンダ、コレは!?」と驚き、「ワケがワカラン」という人が多かったといいます。「胸騒ぎの腰つき」という歌詞も歌い方(発音)も、過去には存在しない耳慣れないモノだったから「ワカラン」となったのでしょう。ビートルズやエルビス・プレスリーがデビューしたときも、同様の「ワカラン」という強い拒絶反応が、お年寄りを中心に沸き起こったといいます。お年寄りというのは、過去に長年親しんできた耳慣れた音楽の印象を強く記憶に残しているものですからね。――  何のことはない、つまり「馴染む」「慣れる」ことなんですよ。それまで小難しく考えてプレッシャーさえも感じていましたが、実は単純なことなんですね。何だかとても救われる思いがいたしました。

ミニ・コンポとPCオーディオ

イメージ
 かつて人気のあった ミニ・コンポ ですが、今ではほとんど PCオーディオ に取って代わられているそうですね。PCによる元々の使い勝手のよさに加え、パワーアンプを内蔵した数々のアクティブスピーカーの登場によって、とても上質な音を得られるようになりましたからね。さらに新しいPCでは、PC自体の音質向上も図られているんですね。  私も昨年に、10年間使ってきたPCの調子が悪くなってきたので、Windows10のPCに買い替えたんです。そしたらヤマハ製のオーディオ・エンジンが搭載されていまして、前から使っていたBOSEの普通のPC用スピーカーが格段に音質アップしましたよ。知らない間にいろいろ進化しているんですね。予想もしていなかった性能向上に、たいへん喜んでおります。  ところで、音質さえ整えば、そもそもPCオーディオというのは、リスニング環境としてはとても優れていると思うんです。その理由は第一に、PCの両サイドに置かれたスピーカーが二等辺三角形を成してきっちりこちらを向いていること。多くの場合、適度な仰角がついているので音が直接スコーンと耳に届きます。第二に、スピーカーと耳との距離が数十センチと近いため、部屋の余計な響きとかに殆ど影響されないこと。やれ吸音だとか拡散だとかに気を使わなくてすむので、これはとても大きな利点ではないでしょうか。  一方、ミニ・コンポでは、そのあたりがなかなかうまくいかないことが多いように思います。何より悩ましいのが置き場所です。PCのように机上に置いて向き合って聴くという環境は、案外と作りにくいもんです。かといって大型の装置のように部屋の中心にどーんと置くようなものでもない。たいていの場合は、部屋の隅のタンスか何かの家具の上に置いているのでは? 実はこれって、最悪の設置方法なんですよね。  翻ってPCオーディオは、PCの本来の用途から派生的に登場したにもかかわらず、図らずも非常に良好なリスニング環境を構築できているといえます。ヘッドホンなんかと違い、狭いながらもきっちりとした「空間」のなかで音楽を「体感」できている。迫力ある音は耳ばかりでなく、胸のあたりにもズンと来ますからね。やっぱりですねー、音楽はそれなりの空間のなかでしっかりポジションをとって聴くというのが貴重なんだと思うところです。

クラシック音楽の略語

イメージ
 クラシック音楽を聴き始めて間もないころ、小学生のときからクラシック音楽ファンだったという職場の同僚が「メンコン」とか「チャイコン」とかいう言葉を発していて、いったい何を言っているのかと思いました。聞けば「メンコン」はメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲、「チャイコン」はチャイコフスキーの同協奏曲の略語だといいます。ほかにも「モツレク」「ベトコン」「ブラ1」「ブラコン」など色々あるのだと教えてもらいました。  まー確かに、いちいち長い正式名称で言っていたらまどろっこしいですからね。なかなか便利な言い方だと思います。ただ、言葉の響きとしては、どれもあまり格好よくない感じがします。とくに「ベトコン」なんて、ベトナム戦争のときに南ベトナムの武装共産ゲリラを蔑んで呼んだ名前と同じで、私なんぞはむしろこちらの方を先に想起してしまいます。だからって「ベーコン」にすると食べ物みたいだし、「モツレク」もオムレツみたい。「ブラ」となると・・・。  ところで、これらの略語は、クラシック音楽ファンばかりでなく、プロの演奏家の人たちも使っているのでしょうか? 聞くところによると、演奏家側はそういうの気に入らないそうですし使わないらしいです。これはさもありなんというか、何となくわかる気がします。プロとして自分たちが真摯に取り組んでいるものを略語で呼ばれたら、何となく軽んじられているような不快な気持ちになるのではないでしょうか。作曲家本人が聞いたらなおさらだと思うんです。  実は私も以前、自分の仕事の内容に関して、第三者から軽い言い回しで言われてちょっと「むっ」とした経験があります。別にお高くとまっているわけではなく、自分が大事に思っているが故の率直な感情なんだろうと思います。ほかにも私たちの普段のシーンのなかで、略語というのは往々にして礼を失してしまう場合があります。例えばある会社に郵便物を送るときの宛名を「株式会社〇〇」ではなく「(株)〇〇」と書いたら、たいへん失礼になります。まして社名そのものを略すなんて絶対にあり得ない。  「メンコン」「チャイコン」などがこれと全く同等だというつもりはありませんし、むしろ親しみを込めた愛称だという考え方もあるのでしょう。まして、軽んじる気持ちなど毛頭ないはずです。でも、私は略語で言うのはちょっと引っ掛かるというか、何となく好きじゃないです。まことに天邪

『100曲クラシック=ベスト』

イメージ
 『 100曲クラシック=ベスト 』、CD10枚組で3,000円もしないんですよ。ずいぶん安いですねー。でも、こういうコンピレーションものについては、クラシック音楽を聴いたことにはならないとか、鑑賞に耐えないとか、決してクラシック音楽ファンが増える助けにならないなどの批判を耳にすることがあります。そんなの聴いたって、クラシック音楽の何が分かるんだ!?って。  でもですねー、これからクラシック音楽を始めようとする人にとって、これほど有難いCDはないと思いますよ。不肖私のクラシック音楽ファンとしての経歴はたかだか十数年ですが、私の場合、最初は iTunes で無料で試聴できる部分を片っ端から聴いたもんです(しみったれですので)。1曲あたり30秒くらいですが、そのわずかな時間のなかで、ピンと来る曲を探し求めたんです。当時はほとんど何も知らない私でしたからね。  そうしたら、何曲も何曲も聴いているうちに、突然ビビビッと来る曲に出会ったんです。 Apollo's Fire という楽団が演奏する、 モーツァルト の《ピアノ協奏曲第20番》です。長い前奏があってソロピアノが入るか入らないかのところで時間切れになりますが、「うわー何と雰囲気のある曲なんだ!」って、たったそれだけでとても感動したのを覚えています。あの時の、あの曲、あの演奏との出会いが、今に繋がっているんです。  誰だって、始めは初心者ですからね。そんな人がいきなり長大な交響曲の全楽章を聴かせられたって、たちまち拒否反応を起こしてしまうのがオチです。かの 宇野功芳 先生も生前、初心者へのアドバイスとしておっしゃっていました。とにかく多くの曲を聴きなさい、そして、好きなメロディがあったらそこだけでもいいから繰り返し聴きなさい、って。本当にそう思います。

レコードの音がCDより良い理由?

イメージ
 CDがこの世に登場してから、もう30年以上になります。そして、その時以来ずっと、「デジタルの音はアナログの音より劣っている」と言われ続けてきました。その理由は、「アナログは線であり、デジタルは点にすぎない。だからデジタルはアナログを永久に超えることはできない」んだと。  なるほどごもっともと、素人オーディオ・ファンの私も、長らくそう信じ続けてきたのですが、実はそうとも言い切れないとの論調もあります。各種オーディオ・ケーブルを商品として扱う” procable ”さんのサイトに、こんな話が載っています。   ――アナログが優れていることは私も認めますが、線であるという主張には多大な疑問があります。アナログレコードは溝の連続です。その溝の上を、非常なる高速で、カートリッジ、針がなぞっています。時速300キロでダートを車が走っていると考えていいです。ダートの溝は当然ながら、大多数が飛び越えられていきます。つまり溝は線でなく、この種の過酷な状況下では、点と化しています。――  なるほど、とても分かりやすい表現です。ということは、アナログとデジタルは、決して「線と点」の対決ではなく、あくまで「点と点」の対決ということになります。このあたり、どうなんでしょう。顕微鏡で演奏中のレコードの盤面を観察すればよいのかもしれません。  一方、CDに比べて、なぜレコードの音のほうが良いといわれるのかという疑問に対して、とても冷静沈着かつ丁寧な説明をなさっている人がいます。Yahoo知恵袋で見つけた aiflist さんという方によるものでして、ずいぶんなるほどーと思いましたので、私の備忘録も兼ねて以下に引用させていただきます。   ――人間の耳は純度が高い音よりも、むしろ適度に不純物が混ざっている音の方を良い音と感じる場合があるからです。その不純物の事をオーディオでは『歪み』といいます。レコードはCDに比べて様々な歪みが大きくなりがちなのですが、人間にとってはこの歪みが必ずしも不利に働かないのです。  そのうちの一つに、たとえば『クロストーク歪』というものがあります。これは、本来明確に分かたれるべき左右の音が混ざり合ってしまうことをいい、レコードは原理的にその発生を避けることができません。しかし、このような歪みでさえ人間の耳は都合よく解釈し、それをいい音だと感じてしまう場合があるのです。